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所長の「横顔」インタビュー

「人材サービス総合研究所」所長の水川さんの仕事やキャリアについて「横顔」をご紹介します。

意外と長い「人材サービス」との関わり

— 人材サービスとの関わりはいつ頃からですか?

1989年からです。今から25年以上前からと言うことになりますね。この年、仕事でドイツに赴任し海外駐在生活を送ることになったのですが、社員ではない人が会社の中を自由に歩いていることにとても驚かされました。

デュッセルドルフ

「派遣スタッフ(Associate)」という名称すら知らなかったので、当初は「社員ではない人」としか表現できませんでした。しかも秘書とか経理とか、日本では社員ではない人がやるとは考えられない仕事をやっているのです。なんと会社の鍵まで持っている。今では派遣スタッフの皆さんがセキュリティカードを持っていることも多く目にするようになりましたが、当時としては衝撃的でした。日本では1986年に労働者派遣法が制定されたばかりで、世間ではまだ人材派遣のことはほとんど知られていない状況だったのではないでしょうか。今でも間違った認識をもっている人は多いですけどね(笑)。

— ずいぶん早くからですね。ドイツでの人材派遣サービスはいかがでしたか?

ドイツでは当時のAdia社「アディア」(現在のAdecco社「アデコ」)のドイツ法人からサービスの提供を受けていました。ドイツの労働者派遣法は1972年に制定されたそうですが、すでに社会的にも派遣で働くということが一般的になっていたように思います。どこの街に行ってもアディアの看板を見かけました。ほとんどが路面店で不動産屋さんみたいでしたね。業務上、社員ではない雇用形態による問題はまったく感じなかったし、慣れない土地で困っている外国人である私のプライベートな秘書業務までやってもらたのでとても助かりました。

この業界に携わっている今だからこそ分かるのですが、たぶんドイツでは事前面接は厳格に規制されていたのだと思います。二年ぐらい働いてくれていた秘書が辞めることになり、その後任をどうするかという話になった時にいきなり新しい秘書を連れてきてその日から就業。それなりに引き継ぎはしてくれていたようで、ほとんど支障がなかったですね。面接もせずに人を雇うことなど考えてもいなかったので驚くことばかりでした。

隠れた「国際感覚」と「論理的思考」

— 若い頃の海外経験は貴重ですよね。

はい。まず、異文化の中に身を置くことで非常に視野を広げることができたと思います。それから国際感覚も養われたような気もします。当たり前が当たり前ではない。多角的にeurope map物事を見られるようになったと思います。相手の国の歴史や文化、習慣を尊重することも必要でした。

あと、言葉の不自由さがある中でのコミュニケーションは辛かった。一方では、コミュニケーションは会話や文章だけではないということも学びましたね。相手の望んでいることをくみ取る力が求められていたのだと思います。例え絵を描いてでも伝えたいことを伝える図々しさも(笑)。

それから論理的思考。特に欧米ではこれがモノを言うような気がします。商談をしていても必ず「なぜ?」と聞かれますから、きちんと納得してもらうように話をしなくてはなりません。特に訓練をしたわけではありませんが自然と身についたと思います。

海外経験と言うと外国かぶれみたいなイメージもあるかも知れませんが、私の場合はまったく逆でした。自分が日本人であることを身に染みて感じたことは大きかったですね。日本の歴史、文化、習慣の素晴らしさももちろんですが、日本人が持つ道徳観、倫理観に対する誇りも感じました。

本来の専門は「マーケティング」分野

— お仕事ではどのような経験をされたのでしょう。

当時の西側ヨーロッパを対象としたマーケティングの責任者という話で赴任をしました。海外現地法人と言えばかっこいいですが、実際には零細企業で着任と同時に総務、経理、人事、生産管理まで担うことになり戸惑いました。ナンデモ屋でしたね。

この経験が後々すごく役に立ちました。零細企業と言えども企業の成り立ちとしての、しくみがすべて見えてしまったのです。やっていることは経営そのものでした。メーカーでしたからお金を借りて、造って、売って、お金を回収して、利益を出す。「入るを量って出ずるを制す」…当たり前なのですがキャッシュフローが分かっていなければ倒産です。子会社という立場でしたが、倒産などというかっこ悪いことはしたくない。必死でした。お陰さまで、赴任中に累損を一掃することができました。

— マーケティングのお仕事はどうされたのですか?

もちろん、マーケティングの仕事もしましたよ。国内では営業成績も良かったですし、もともとマーケティングは得意分野でしたから。ヨーロッパの主な国にはほとんど行きました。各国で契約していた代理店のコントロールをすることが仕事でした。自分で直接、売る…つまりセールスをすることはできません。だから、いかに売れるしくみを創るかが重要な仕事だったわけです。

当時のヨーロッパはEU統合前で、通貨もユーロに統一されていませんでした。各国でばらばらだったブランディングを統一していったのは意味のある仕事だったと思っています。

GERMANY-BERLIN WALL-COMMUNISMベルリンの壁が崩壊し東西ドイツが統合されたという歴史的な出来事に立ち会えたのもいい経験でした。実はこの日は出張中で、ベルギーのブラッセルのホテルのテレビでこの世紀の大事件をリアルタイムで見たのですが、その光景には目を疑いました。

その後、日本の雇用にまで影響することになったこの事件を目にしたことは感慨深いものがあります。このような機会を与えてくれた会社には今でもとても感謝しています。

「経営哲学」に目覚めた稲盛和夫さんとの出会い

— それでも転職をされたのですね?

はい。扱っている商品も仕事も好きでしたが、産業自体が構造的な不況で止むに止まれず…。転職するときには絶対に成長産業に行こうと思っていました。

ドイツから帰国して間もなく通信事業者に転職したのですが、衰退期に入っていた前職とはまったく違う成長期真っ盛りで強烈な印象を受けました。通信の自由化からまだ10年も経っていない時期でしたから、社内の制度も仕組みも整っていない中、やることが泉のように湧き出てきて、一言でいえばグチャグチャ(笑)。

最初は大変に思えましたが、一筋の光が見えたのは入社後少し経ってから。当時、会長だった稲盛和夫さんの全社放送を聴いた時でした。どこの通信事業者かわかってしまいますね(笑)。

— 稲盛和夫さんのお話はどのような内容だったのでしょう?

人生の方程式まず、人生の方程式「人生・仕事の結果=考え方×能力×熱意」は有名ですから皆さんもご存知だと思います。考え方だけはプラスもマイナスも有り、プラスの場合は、能力や熱意以上の結果を得ることができ、マイナスの場合はどんなに熱意や能力があっても結果はマイナスという話。これが稲盛さんから最初に教えられたことです。

考え方が大切だと言うことは漠然とは分かっていましたが、これ程までに明解な話はそれまで聴いたことはなかったですね。しびれました。

それから、経営の原点12ヵ条。「事業目的・意義を明確にする」「具体的な目標を立てる」とか「売上最大、経費最小」など今では稲盛ファンの方にはもうお馴染みですね。夢中でメモを取ったことを覚えています。

— KDDIでのお仕事はどのようなことをされていたのですか?

経営企画部門や事業企画部門を初めとして、いろいろなことを経験させてもらいました。人材サービスに関係することで言えば、電話回線の獲得のためのテレマーケティングが最初でした。社内で人材派遣サービスを利用して行っていたものと社外にアウトソーシングしていたものの併用でした。社内で試して仕組みを作ってから外に出すというカタチです。

1993年ごろのことですから、日本ではまだこのような形態は珍しかったと思います。すべてが暗中模索という感じでしたが、それでも毎月非常に多くの回線の申し込みを受けていましたから大変なオペレーションでしたね。

その後、所属していた事業部が子会社として独立した時に、私は本社の経営企画部に残ることになりました。仕事の中身は経営企画らしく種々雑多でした。毎週のように社長からお呼びがかかりあれこれと…。これも鍛えられましたね。

「経営感覚」は経営企画部の経験から

— 水川さんは企業経営についてとても詳しいと思いますが、知識はその頃からですか?

稲盛さん…当時は「弊社の稲盛が…」と言わなければならない立場でしたが…稲盛さんのような「経営の神様」と言われる人がいるのに「経営」などと言うのはおこがましいです。ただ、幸運だったのは一般の社員よりも稲盛さんに接する機会が多かったことです。神様というよりも実際には極めて人間的な温かい人という表現の方が正しいと思いますけど。

稲盛さんの著書は、ほとんど読みました。それも決して押し付けられてではなく自発的に、むさぼるように。そういう意味では経営についての考え方はその頃に身につけていったのだと思います。もちろん、知識だけでなく実務での経験も伴わないと危険ですよね。

ホンモノはご本人が何も言わなくても、周囲が放っておかない。自然に尊敬を集める人徳があるのだと思います。私にとっては知識以上に稲盛哲学にどっぷりつかったことが大きかったと思います。

稲盛さんとKDDIの経営企画部時代は、稲盛さんと社内の同じフロアにいるわけですから、たまにトイレで会ったりして…そうじゃなくて、京セラ流のコンパの末席に加えて頂いたり、海外出張に同行させて頂いたり。本当に幸運でした。

よく「誰と出会うかが大切だ」ということが言われますが、稲盛さんとじかに接することができたのは何ものにも代えられない経験でした。心から、尊敬しています。

現場で培った「アウトソーシング」の知識

— さらに転職して人材サービスの世界に入られたのはなぜですか?

実は、人材サービス業界に移る前に伏線があったのです。経営企画の仕事を地に足の着いたものにするためには、現場を知ることが重要だと考え、上司に現場への異動をお願いしたのです。マーケティング部門に行きたいという気持ちもあったのですが、実際には事務センターに赴任することになりました。

その時に上司から受けたミッションは、ほとんど社員と人材派遣で運用している業務をアウトソーシングに切り換えて来い、というものでした。3年間で70%ぐらいの業務を委託しましたね。よく言われる話ですが、社内の抵抗勢力がすごかった。ただ、新しいサービスが次々と生まれる急成長中の通信事業にあって、そのサービスを円滑に提供するための基盤を創り、業界内の競争力強化につなげられたことは、その後のKDDIの成長の一端を担えたものと自負しています。要するにやっていることはBPRですね。

コールセンター1結局、その後も新設の子会社から事務センター、カスタマーサービスセンター、料金センターの業務のアウトソーシングを請けるプロジェクトマネージャーをやったり、本社内の料金センターの業務をアウトソーシングに出したり、CRMセンターを立ち上げたり…。いつの間にか人材サービスの領域の方が詳しくなってしまったのです。ふと気がつくと通信の仕事は何もしてない(笑)。

その当時には、すでに、人材サービスが人びとの働き方や企業の成長に大きくかかわる非常に意義のあるビジネスだということを強く感じていました。

— 立ち位置が変わったということですね。

はい。業種としてはそういうことになります。ただ、職種で言うと常に企画屋でしたから何を企画するかの違いだけで、いつも何かの仕組みづくりをしていることに代わりはなかったですね。機会があればお話ししますが、客観的に自分のコンピテンシーを俯瞰すると「しくみ創り」屋なのだと思います。

outsourcing実は、日本のBPOで初めて従量課金の仕組みを採り入れたのは私です。電話料金が3分10円の従量課金だったことから、量に従って単価を掛けるという意味で、このしくみを「従量単価制度」と名付けました。

一般的には固定費と思われていた事務センターでの運用コストを変動費化したということは画期的だったと思います。電話会社はお客さまからの申し込みに対して、回線を開通して初めて売り上げに結びつくわけですから、本来、運用コストは間接費ではなく直接費のはずです。部門別採算制度のアメーバ経営が行き渡っていたということですね。

その後もBPOの進化はあったとは思いますが、基本的なことはほとんどこの当時に確立されていたと思います。試行錯誤の繰り返しでした。

「派遣先」と「派遣元」、双方の経験

— 人材サービスとの関わりはアウトソーシングだけだったのですか?

もちろん人材派遣のサービスも多用していました。オペレーションの規模が大きかったので多い時には年間に100名以上の派遣スタッフを受け入れていました。指揮命令の所在を考慮して人材派遣とアウトソーシングは明確に区別していました。

実は、当時、1997年ぐらいのことだったと思いますが、今ほど派遣法が厳しく言われることはなかった、と言うよりそのような法律が有ることさえ知りませんでした。ある時、派遣会社の営業担当の人が事前面接は法に触れると忠告してくれました。クライアントに対して意見することを遠慮する営業担当者もいましたが、企業として法律を遵守することは当然です。

派遣元責任者講習法に触れることを教えてくれなかった派遣会社にはクレームをつけたぐらいです。クライアントの立場で言うと正しいことを教えてくれる取引先の方が頼りになるのです。

また、教えてもらうことを待つだけでなく、それから随分派遣法の勉強をしました。そのうちに、時には派遣会社の営業担当者に私が派遣法を教えるという場面もありましたね(笑)。

— その頃からすでに人材サービスにお詳しかったのですね。

いつの間にか詳しくなったということですね。そんな訳で通信事業者から人材サービスに転身しました。客観的には何の脈絡もないように見えると思いますが、実際には必然だったのだと思います。キャリア理論で言う、計画的な偶発性ですね(笑)。

— クライアントの気持ちをわかっているのはとても大きな強みですね。

はい、そう思います。私の場合、ご機嫌伺いに頻繁に通ってくれる営業担当者よりも、派遣スタッフをきちんとフォローをして、月に一度でも必要な情報をきちんと提供してくれる営業担当者の方が好感を持っていましたね。

crm center多くのクライアントは、派遣スタッフが気持ちよく働いてくれる方が成果が上がることを知っているのではないでしょうか。人のモチベーションはちょっとしたことで大きな差が出ますからね。よく派遣先企業が派遣スタッフに冷たいという話を聞きますが、そのような接し方は全くの間違いです。むしろ派遣元がその事に気づいていないことが多いのではないでしょうか。

もう一つは、派遣スタッフの気持ちがよくわかるということです。多くの派遣スタッフの方と話をさせてもらいました。同じ職場にいるのですから、派遣元の担当者よりも付き合いが深いのです。派遣スタッフが「うちの会社」と言うときに、派遣元のことを指しているのかと思ったら、実は派遣先のことだということがよくありました。結局、その方が派遣スタッフにとっても派遣先企業にとってもWIN-WINなのですよ。職場を離れるときにスタッフの皆さんから心のこもった色紙を頂いたこともあります。

— お話を伺っていると、とても派遣スタッフの皆さんから信頼されていたことがよくわかります。

色紙雇用形態に関係なく、分け隔てない姿勢を貫いてきたことが、信頼につながったのかも知れません。人材サービス業界に入る時に真面目に一所懸命働いてくれる彼ら彼女らが幸せになるようにという思いは今でも変わりません。今でもその色紙のコピーを持ち歩いていますよ。初心に戻りたい時に見直します。この色紙は、人材サービスの仕事をするうえで、私にとっての宝物です。

「しくみ創り」がコンピテンシー

— 人材サービス業界に入られてからはどのような仕事をされたのですか?

相変わらず企画業務、「しくみ創り」屋ですね(笑)。経営企画部、社長室、ビジネスプロセス統制部、広報宣伝部など経営を取り巻く業務ばかりです。全社の利益改善のプロジェクトマネジメントもやりました。人材派遣協会や人材派遣健保の仕事や大学での講義や外部のセミナーの講師もやりました。

最後は日本では概念としてまだあまり知られていないパブリックアフェアーズの仕事でした。外資だったので本国側の意向もあったのですが、誰もやったことのない仕事をなぜか私がやることに。欧米では一般的なようですがこれは難易度が高い仕事でした。本国から出張で来た同僚からは「大変だねぇ」と冷やかされました。

今でもそうですが、企業経営のことはもちろん、業界のこと、法律のこと、政治的なこと、行政のこと、社会の動きなどあらゆることにアンテナを張っていなければなりません。厚生労働省にもよく通いましたし、有識者の方からもよく話を伺いました。お陰さまで派遣法については、相当詳しくなりましたね。

いずれにしても、すべて、派遣スタッフや企業にとってのベネフィットのためにどうするかという観点が必要でした。自社のためという小さな観点では通用しませんね。ここでもクライアント時代の経験は非常に役立ったと思います。

今後の取り組みは?

— 「人材サービス総合研究所」ではどのようなことを目指されているのでしょう?

logo一言で言えば、「フィロソフィ」に掲げた通りのことをやるということです。人材サービス企業の皆さんを中心にイノベーションをサポートし価値を創造することで、働く人びとと企業の皆さんのお役に立つことで社会に貢献したいという一念です。私自身がブレないことが大切だと思っています。これまでの知識や経験、ノウハウが皆さまのお役に立てるなら何よりです。

— ありがとうございました。結局、仕事の話ばかりでしたね(笑)。

結構、仕事師かも知れません。仕事以外のことも訊いてくださいよ。

— 今回は、仕事やキャリアに関する水川さんの「横顔」についてお伺いしましたが、次回以降は、仕事を離れた趣味や興味・関心に関する「素顔」や、コンピテンシーや哲学に関する「真顔」についてもお聴かせください。

続編があるのですね。「素顔」はともかく、「真顔」は真面目に語らなきゃ(笑)。よろしくお願いします。ありがとうございました。

<「横顔」では、水川さんの仕事や経験について伺いました。(Y) 2015.12.11.>

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