成人式今日は成人の日、ともすればニュースを見なければ、成人の日であることすら忘れてしまいそうです。

「成人の日」と聞くとどうしても若者の将来のことを思わずにいられません。

成人の日に寄せて、これからの若者の雇用について考えてみたいと思います。

2・6・2の法則

大学の進学率は5割を超えているそうです。どのような思いで大学に入ったのでしょう。

勉強をするため?、遊ぶため?、将来の職業のため?、夢を探すため?、資格をとるため?、花嫁修業のため?(今どきそんなことを言う人もいないか…笑)、社会に出るまでの猶予期間?、なんとなく?

理由は何でもよいのかも知れません。人それぞれだし、それこそが多様性なのでしょう。

その昔は、大学を卒業する人はほんの一握り、私が卒業したころでも3割程度でした。

2・6・2の法則とか2・8の法則というものがあります。それだけで人の価値を決めることはできませんが、世の中、概ねこの法則に従っていることが多いように思います。

組織で言えば、2割がメンバーシップ型、8割がジョブ型ということです。メンバーシップ型の中に2割と8割、ジョブ型の中にも2割と8割なのかも知れませんが…。

士業さえ仕事がなくなる

これからの時代、間違いなく雇用の二極化が起ります。いや、すでに起こっています。

大学を出て、嘱望される資格を取ったとしても安泰とは言えないことになります。

大学を卒業した人がメンバーシップ型を約束されるわけではないのです。もちろん、メンバーシップ型の方が偉いということもないのですが…。

例えば、日ごろ、私たちが目にする機会が多い調剤薬局の薬剤師。

決められた薬を決められた数量だけ処方するって、薬の名前を間違えずに、数が数えられれば誰でもできるはずです。それに1時間も待たされるのはどうなんだろうといつも思います。

もし周りに薬剤師の方がいらっしゃったら申し訳ありません。でも、ロボットが自動的にピッキングした方が間違えもないし早いのではないでしょうか。

新薬開発の薬剤師は一握りの世界だと思いますが、処方箋薬局はなくなってしまうかも知れません。

これまで羨望された公認会計士、弁護士、社会保険労務士、税理士のような士業でさえ大部分は不要になっていくでしょう。

医師の診断は、検査データを基にしたパターン認識だから、多くはすでにAIのほうが正確かもしれないそうです。

大切なことは「志」

これまで、むしろ羨まれていたような仕事も、5年後、10年後にはなくなっている可能性が高い時代に入ったのです。

若者が将来を考えるには、あまりにも不確実でかわいそうな時代と言えるでしょう。

就職するにしても、転職するにしても、そこに立ち会う人材サービスに携わる皆さんの責任も重大です。希望のもてる仕事につながるようにしてあげたいものです。

フェースブックに「過去のこの日」という機能があって、以前に投稿したコメントが表示されます。

今日は5年前につぶやいたことが表示されました。2012年です。

5年経っても、気持ちはまったく変わりませんね。どんなに不確実な時代であっても、これだけは忘れて欲しくないと思います。

「志」が大切なのは、職業を探す人にとっても、職業を紹介する人にとっても同じです。

Facebookのコメント – 2012年1月9日

今日は成人の日。「近ごろの若いものは…」と言うことはほとんどない。むしろ、感心するようなこともある。「自分が若かったころはもっとだらしなかった」というぐらい。

そうは言うものの、ぜひ「志」をもって生きてほしい。「士」と「心」で「志」。言わば武士道のようなものかも知れないが、高邁な精神と健全な肉体に宿るものが「志」と言えるのだろう。

若者は決してバカではない。むしろ、情報過多の世の中で多くの取捨選択をしながら生きているようにも見える。故意に間違ったことをしようとも考えていないと思う。

経験を積んだ大人が、それを理解し、ある程度信頼し、自ら考え正しい選択をすることを見守ることも必要なことなのだろう。

「近頃の大人は…」と言われないようにしなきゃ(笑)。

見られたい自分の演出

最近の若い人…20代だけではなく30代でも40代でも…を見ていると、妙に知恵がまわるというか、溢れる情報の中からいいとこ取りをしているというか、自らを演出していると思われる人をみかけます。

見られたい自分になるためには、どういう言動をしたらよいのかと逆算しているのです。

不思議とそういう人は底が透けて見えてしまいます。

演出はあくまでも演出で、役者として演技がうまい人もいればうまくない人もいるだけです。残念ながらホンモノではありません。

例えば、口では「世のため人のため」と言っていても、それは「世のため人のため」を演じているだけで、結局は「自分さえよければ」になっている。

「嘘も100回言えば真実になる」とも言うので、ないよりマシなのかもしれませんが、まやかしは、どこまで行ってもまやかしです。

本人はうまく演じているつもりでも言葉の端々を聴いていれば偽装はわかってしまうのです。

品位品格を身につける

そもそも大学を卒業したことが偉いわけではありません。私の身近には学歴に関係なく心から尊敬できる人もいます。

おもいやりがあって、きちんと耳を傾け、人のキモチを汲み、誰に対しても謙虚で、分け隔てなく、周囲から信頼され…そのような「人」としての徳性だけでなく、頭の回転も速く、発想も豊かで、知的好奇心にあふれている。

生半可に大学を出た人よりもはるかに頭がいい。教養もある。そのような人に魅力を感じます。本当に頭がさがります。

品位品格というのは演出や演技では表現できません。飾ったり、気取ったりではなく、生き方そのものから醸し出されるものでしょう。

穏やかな物腰であったり、話し方であったり、ちょっとした表情やしぐさ、笑顔、言葉遣いももちろんです。

そのような品位品格を身につけるためには、演出や演技でないホンモノの「志」をもって、真摯に生きることしかないように思います。

どのような時代であってもそのような品位品格のある人こそが認められるのではないでしょうか。

成人の日にいつも思い出すのが、司馬遼太郎さんの「21世紀に生きる君たちへ」という短いエッセイです。さすがに趣のある素晴らしい文章です。じっくりと読むと重みを感じます。

不確実な時代に確実な答えはありませんが、人材サービスに携わる者として、次世代の若者が少しでも将来の可能性につながるキャリアを歩めるよう力を尽くしたいものです。

21世紀に生きる君たちへ(司馬遼太郎)

私は、歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。

両親を愛するようにして、歴史を愛している。

歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」と、答えることにしている。

私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。

歴史のなかにもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。

だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。

この楽しさは — もし君たちさえそう望むなら — おすそ分けしてあげたいほどである。

ただ、さびしく思うことがある。

私がもっていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。

未来というものである。

私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。

君たちは、ちがう。

二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。

もし、「未来」という街角で、私が君たちを呼び止めることができたら、どんなにいいだろう。

「田中くん、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている、二十一世紀とは、どんな世の中でしょう。」

そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という街角には、私はもういない。

だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。

私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。

そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。

原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。

それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているのである。

自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。

このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。

助け合うという気持ちや行動のもとは、いたわりという感情である。

他人の痛みを感じることと言ってもいい。

やさしさと言いかえてもいい。

「やさしさ」

「おもいやり」

「いたわり」

「他人の痛みを感じること」

みな似たような言葉である。

これらの言葉は、もともと一つの根から出ている。

根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならない。

その訓練とは、簡単なことだ。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分でつくりあげていきさえすればよい。

この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。

君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲良しで暮らせる時代になるにちがいない。

鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、大切にしてきた。

人間は、いつの時代でもたのもしい人格をもたねばならない。

男女とも、たのもしくない人格に魅力を感じないのである。

もういちど繰り返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。

自分には厳しく、相手にはやさしく、とも言った。

それらを訓練せよ、とも言った。

それらを訓練することで、自己が確立されていく。そして、”たのもしい君たち”になっていく。

以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心がまえというものである。

君たち。君たちはつねに晴れ上がった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。

同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。

私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。

書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。

(平成元年「小学校国語六年下」大阪書籍)

お陰さまで好評発売中です!ご注文は、Amazon からお願いします。

全国の紀伊國屋書店、丸善ジュンク堂、ブックファースト、有隣堂、三省堂書店などでもご購入いただけます。

雇用が変わる

関連記事: